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エッセイ

趣味への出費は、金額より「把握していないこと」が重い

好きなものにお金を使ったあとに残る、あの少しの重さについて。金額そのものではなく、確かめていないことが原因かもしれません。

ライブのチケットを取る。遠征の新幹線を予約する。限定版を買う。楽しみにしていたはずの決済なのに、確定ボタンを押したあとに少しだけ胃が重くなる。「今月、使いすぎたかもしれない」という感覚が、しばらく居座る。

この重さは、金額の大きさから来ているとは限りません。

「使いすぎたかもしれない」は、たいてい疑問形のまま終わる

よく見ると、この感覚は断定ではありません。「使いすぎた」ではなく「使いすぎたかもしれない」です。

つまり、まだ判定が終わっていない。使いすぎたのかどうかを確かめないまま、確かめていないという状態だけが不快感として残っている。だから、時間が経っても薄れないし、次に何かを買うときにも同じ重さが戻ってきます。

そして厄介なことに、この疑問は「もう少し我慢する」ことでは解決しません。使う金額を半分にしても、それが多いのか少ないのか分からないままなら、重さは半分にならないからです。

趣味の出費は、構造的に把握しにくい

家賃や光熱費と違って、趣味の出費は把握しにくい形をしています。

まず、不定期です。 毎月同じ額が出ていくわけではなく、ライブが重なる月とまったくない月の差が大きい。だから「月いくら」という平均が実感と合いません。

次に、支払い先がばらけます。 チケット代、交通費、宿泊費、グッズ、衣装、現地での食事。家計簿のカテゴリで言えば「交通費」や「食費」に散らばってしまい、合計するとどうなるのかが最後まで見えません。

さらに、支払いの時期がずれます。 チケットは半年前、遠征費は直前、カードの引き落としはその翌月。使った月と、口座から出ていく月が一致しないので、残高を見ても照合できません。

固定費なら「月◯円」と言い切れるのに、趣味だけがずっと曖昧なままなのは、意志が弱いからではなく、こういう形をしているからです。

金額が分かると、罪悪感は判断に変わる

一度、年間でいくら使っているかを出してみると、感覚がはっきり変わります。

たとえば年間で30万円だったとします。この数字が出た瞬間に問いは「使いすぎだろうか」から、「30万円を出しても、この先1年の生活は回るか」に変わります。後者は答えの出る問いです。

そして答えが出れば、次の行動が決まります。回るのであれば、次の遠征で胃が重くなる理由はありません。回らないのであれば、減らすのか、時期をずらすのか、ほかを削るのかという選択になります。どちらに転んでも、「かもしれない」よりは軽い状態です。

減らす結論にならなくてもいい

ここで大事なのは、確かめた結果が「減らすべき」である必要はまったくない、ということです。

お金の話になると、把握する目的は削ることだと思われがちです。けれど、確かめる本当の効用は、削れることではなく、続けても大丈夫だと分かることのほうにあります。実際、年間の金額を出してみて「思ったより少なかった」となるケースは珍しくありません。心理的に重かったぶん、金額を過大に見積もっていたということです。

好きなものにお金を使うたびに少し後ろめたくなるなら、その後ろめたさは節度の証ではなく、単に計算していないことの副作用かもしれません。金額を減らさなくても、金額を知るだけで軽くなる部分は、思っているより大きいです。

自分の場合はどうなる?

家計の状況を入力すると、今月自由に使えるお金が分かります。

自分の数字で試してみる